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イントゥザワイルド 孤独の自由を求めた旅の最後で見つけた真理とは? [考えさせられる映画]

この作品は見る度に新たな発見を
する程、深いメッセージがあります。

なので、”ながら”ではなく
じっくりと見られることをお勧めします。

では、作品紹介です。

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イントゥザワイルド

奥深さ ★★★★★(MAX)

2007年のアメリカ映画

脚本・監督 ショーン・ペン
(ミルクやアイアムサムで主演の俳優)

原作「荒野へ」

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個人的な解釈と感想は後ほど。

===あらすじ===

難関大学を優秀な成績で卒業したクリスは
(本名:クリストファー・ジョンソン・マッカンドレス)
家族に黙ってアラスカへ旅に出た。

旅に出る理由は、
毒されたて偽りの文明社会から離れ
孤独に自由になる為だった。

文明の象徴はクリスの両親だった。

両親ともクリスと同じエモリー大で出会ったが
父は既婚者だったためクリスと妹は私生児で
両親は正式な夫婦ではなかった。

父は元NASAの天才エンジニアだったが
母と一緒にコンサルタント業を始めたが
仕事が成功するに連れて夫婦の仲は悪くなった。

家庭は破綻寸前だったが世間体を気にして
良い夫婦を演じていたので離婚はしなかった。

しかも父は正妻との子を隠し続けていた。

また、必要以上に物が溢れている都会の
過剰な物資的な世界にもうんざりしていた。

クリスは繊細で精神的に弱かったので
哲学者トルストイの影響もあり
強さを求めて孤独な一人旅に出る。

わずかな現金と、必要最低限の物をリックに詰め、
全ての預金を寄付、しオンボロ車で出発した。

捜索されないように両親からアパートに
送られる手紙は局止めにする徹底ぶり。

名前もアレクサンダー・スーパートランプ
という偽名を使った。(トランプとは放浪者)

途中、豪雨に遭遇し車が流されたので
そこからは歩きとヒッチハイクをして
寄り道をしながらアラスカを目指した。

アラスカへ向かう途中の寄り道で
様々な人との出会があった。

キャンピングカーで点々と生活をする
レイニーとジャン。

レイニーを捨てた前の夫との間に
クリスくらいの歳の息子リノがいたが
ある日、突然いなくなった。

レイニーはクリスを息子に重ねていた。

他にも

兄貴のようなウェインの農場では
肉の捌き方、燻製の作り方を学び、

クリスに恋をしたトレーラー生活の
歌手の16歳のトレイシーとはセッションし、

妻子を酔っ払いの事故でなくした老人のロイ
には革細工を教えてもらいベルトを作った。

ロイはクリスとの別れを惜しんだ。

ロイは神を信じないクリスに
「何か大きな力が確かにある、それが神だ。
許せる時がきたら、愛せる。
愛せた時に神は君を照らす。」と言う。

人々とのふれあいを経てアラスカについた。

アラスカの誰もいない荒野(ワイルド)に
足を踏み入れたのは残雪が残る年明けだった。

荒野に廃バスを偶然に見つけそれを奇跡のバスと呼び、
生活の拠点にした。

冬の間は狩りや持っていた米でなんとかしのげた。

そして雪が溶け始め春がきた。

アラスカの荒野から戻ろうとしたが
川が増水していて帰れなくなっていた。

もう米はなく狩りも上手くいかずに
クリスはみるみるやせ細っていき、その度に
ロイと一緒に作った革ベルトに穴を開けた。

トルストイの本から
持ってきた植物図鑑で食べられる野草を
調べて食べることにした。

しかし、
食用可のワイルド・ポテトと似ている
毒のあるワイルド・スイートピーを
食べてしまった。

下痢、嘔吐、消化不良などの毒があり
奇跡のバスの中で餓死してしまう。

死体はベラジカ猟師に発見された。

クリスが付けていた日記の最後に

「幸せが現実になるのは誰かと分かち合うとき」

とあった。

========

<個人的な解釈>

この作品は見る人の価値観や信念、
生活してきた環境などで見方が
別れると思います。

[新月]?過剰な物質的な世界が嫌で荒野に旅に出たのに
カメラを持っていくのはおかしくないかい?と
言う意見もあると思いますが

物自体を拒否しているのではなく
必要以上に消費することに違和感があったのだと
個人的には思います。

ヘラジカを銃で仕留めて解体したのに
蛆虫が湧いてしまって無駄になったとき
クリスは「最も悲しいこと」と言っています。

そういうところからそう解釈しました。

[新月]?なぜ孤独の旅にアラスカを選んだのか?

旅立つ理由に

「偽りの自分に勝つ、精神の革命」

「過酷とは人物を試す」

「海は強さを与えてくれる。強さとは
強いことではなく、強いと感じることだ。」

から繊細で精神的に弱い自分に強さを感じたい為に
過酷で誰も頼れないアラスカを目指したのだと思います。

(感想)

大切でなければ常に身近に置かないはずなのに
常に身の回りに存在する人や物ほども
あまりにも近すぎて大切に出来ないのかも
しれないなと思いました。

以上です。

ご訪問ありがとうございました。

では。

スタンリーのお弁当箱 インド社会の子供達の現状を伝える映画 [考えさせられる映画]

エンドロールで

土曜日と休暇中に撮影
各日5時間以内の撮影
子供達は1日も学校を休まなかった

インドで働く児童の数は1200万人以上
家事労働も含めると5000万人以上

とあっとことから、

この作品ではインド社会で置かれている子供達の
現実を伝えたかったのかもしれません。

その作品は

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スタンリーのお弁当箱

日本上映2013年のインド映画

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感想と疑問点については後ほど。

=====あらすじ=====

キリスト系の学校に通う4年生のスタンリー。

話上手で明るく人気者だったが
いくつか問題もあった。

宿題をよく忘れる事、左利きである事。

そして弁当を持ってこない事。

友人達に弁当がない事が
バレないようにしていた。

ある日の昼、教室を出て行こうとするスタンリーに
友人が「どこに行くの?」と訪ねた。

スタンリーは「弁当を買いに行く」と嘘をつく。

そんなスタンリーに友人はお母さん手作りの
ポテトのロティを1枚あげようとしていた。

その様子を見ていたヴァルマー先生は
スタンリーに貰うなと注意をした。

ポテトのロティを狙っていたからだ。

ヴァルマー先生は大の食いしん坊で
常に生徒達の弁当を狙っていた。

友人達から弁当を分けてもらう
スタンリーを目の敵にしていた。

ある日、先生達は校長室に呼ばれた。

授業の遅れを冬休みで挽回するから
出勤して欲しいという旨だった。

冬休みに補講があることを生徒たちに
優しく人気者あるロージー先生が伝えた。

補講は長時間だから大きめの弁当を
持ってくるようにとも付け加えた。

大きめの弁当にヴァルマー先生は
ワクワクしていた。

補講日の初日、クラスで一番お金持ちの
アマンの4段式の弁当に目をつけていた。

アマンの弁当で頭がいっぱいだった。

お昼の弁当の時間になった。

スタンリーは教室を出ようとしたが
友人達にどこに行くのか訪ねられた。

スタンリーは

「お母さんが家で作っている」

と嘘をついて教室から抜け出した。

しかし外のマリア像の前にいる
とこをと友人の一人が見つけた。

弁当が無いことが友達達にバレてしまい
「お父さんが出張でデリーに行っていて
お母さんもついて行っている」と嘘をついた。

それを聞いたアマンがお母さんが戻るまで
一緒にみんなで食べよと提案をした。

アマンの弁当が食べ終わることに
ヴァルマー先生がやってきた。

補講の2日目、アマン達はヴァルマー先生に
弁当が狙われ無いように階段下で食べた。

教室にアマン達がいなかったことを
ヴァルマー先生はしつこく聞いたが
上手い理由をつけてごまかした。

3日目はグランドで4日目は大教室で食べた。

5日目にとうとうヴァルマーに見つかった。

何癖をつけて自分から逃げ回っている生徒達に
ヴァルマーは怒りがこみ上げてきた。

そして目の敵にしているスタンリーに言った。

「ネズミ野郎、弁当を持って来ない者は学校に来るな」

次の日、教室にスタンリーの姿はなかった。

スタンリーが学校に来なくなった頃、
支援協会企画のコンサートにホーリー・ファミリー校からも
何人か参加させたいと校長先生から先生達に申し出があった。

構内ではコンサートメンバーのオーディションが行われたが
スタンリーの友人達は歌の上手い彼が適任だと考えた。

そこで、コンサートをスタンリーに知らせようとするが
聞いていた電話番号は不通で、住所も分からなかった。

ある日、友人達はたまたま学校に行っているフリをして
時間を潰しているスタンリーに会った。

そこでスタンリーにコンサート参加メンバーが
練習している場所の地図を渡した。

スタンリーは練習場所に行ってみたが、
学校で選考されていないので見様見真似で
練習をした。

ある日、コンサート練習の指導者が
スタンリーの練習に気づいた。

「どうして上手いのに選ばれないの?」

の指導者からの質問にスタンリーは

「弁当箱がないから選ばれない」と答えた。

指導者はスタンリーを練習に参加させた。

その事をスタンリーは友人達に報告した。

報告は2つあった。

1つはコンサートメンバーに選ばれた事。
もう1つは「明日学校で」という事だった。

次の日、スタンリーは4段の弁当箱を持って
登校してきた。

そして真っ先にヴァルマー先生の所に向かった。

4段式の弁当箱から1つずつ弁当を取り出し
ヴァルマー先生の前に並べて言った。

「全部あげるから学校に来ていいですか?」

スタンリーを追放した事に負い目を感じていた
ヴァルマーは手紙を残して学校を去っていった。

スタンリーは校長から手紙を受け取った。

手紙の内容はヴァルマーからの謝罪だった。

支援協会のコンサートでのスタンリーの演技は
見に来た保護者や教員達の心を打つものだった。

コンサートの帰りにスタンリーを可愛がっている
ロージー先生に送ろうかと提案されるが、

「お母さんが車で待っている」と断った。

自宅まで事情を知っている校長先生が送った。

帰るや否やスタンリーは食堂を営む叔父に
日曜日は忙しいのにどこに行っていたのかと
ビンタされた。

スタンリーの両親はすでに他界していたのだ。

叔父の食堂で調理場で料理人の手伝いを
しながら暮らしていた。

コンサートの指導者からプレゼントされた
4段式の弁当箱の料理は店の残り物だった。

スタンリーの弁当を用意してあげた料理人に
「どうして弁当がないことを黙っていたのか」
と聞かれスタンリーは答えた。

「残りの料理は自分の物ではない」と。

料理人は「でも叔父さんのだろ?」と
聞き返すと「家族じゃないから」と返答した。

「余り物だし俺が作ったから気にするな」
と料理人はスタンリーを諭した。

それからスタンリーは弁当を学校に
持っていくようになった。

スタンリーは料理人の美味しい料理を
「お母さんが作った」と説明しながら
友人達や先生達に振る舞った。

==============

あらすじを読んでくださったあなたは
先生が生徒の弁当を摘めるのか?と
疑問を持ったかもしれませんね。

調べてみるとインドでは先生は
結構自分勝手な振る舞いをしていて
それが許されているようです。

生徒の弁当をつまむ事は日常茶飯事に
起きているレベルのことらしいです。


カースト制で身分の違う人の食べ物を
食べるのか?

最近では都会ではカースト制の身分に
拘らなくなっているようです。

<感想>

どうしてヴァルマー先生は生徒達の弁当を
つまみ食いする事に執着していたのか?

ひょっとしてヴァルマー先生も
スタンリーのような境遇で育った事が
弁当への執着になっているのかもしれない
と個人的には感じてしまいました。

そして、

スタンリーが周りにバレたくなかったのは
”弁当”がない事ではなく”お母さん”がいない事
だったような気がします。

映画の冒頭でスタンレーの顔にあざがある事や
お母さんがいる素振りを頻繁にすること、
そして左利きが矯正されていないことから

孤児であることはすぐにわかりました。

インドは右手は神聖とされ食事は右手で
行う事が普通です。

左手はお尻を拭いたりする際に使う手で
鉛筆を持って勉強をしていたり、
食事をするシーンはちょっとグッと来ました。

という事で以上です。

ご訪問ありがとうございました。

では。
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